『慧妙402号』−私が見た創価学会 (理境坊信徒・原島昭)

今般、宗内雑誌『慧妙』に、極めて興味深い記事が掲載された。創賊の原島元教学部長の兄である昭氏が実地に見聞した戸田・池田にわたる二代の創賊史を語り始めたのである。ハッキリ云うが山崎正友氏の手記などは伝聞に基づくものが多く、史料としての価値は低かった。

しかし、今回の原島昭氏の発表はまさに「歴史」の実見者が語る史実であり極めて高い史料である。特に第二回目は戸田城聖の実相が語られており興味深いものである。

現在、宗内では戸田城聖の発言を切り文にして現在の創賊と対比させることによって創賊の矛盾を論ずる傾向があるが、史料を精査すると、現在の創賊の根本に戸田城聖が在ったのである。已下、


[その一]

[原島家と池田大作の邂逅−若き日に垣間見た池田大作の本性]

 理境坊信徒・原島昭 (元・東洋哲学研究所 研究員)※註

【註】東洋哲学研究所は創賊教学部のシンクタンクで原島崇氏も在籍していた。


一、池田大作と原島家の因縁

 東京大田区・多摩川下流の六郷川のほとりに矢口渡(やぐちのわたし)があり、私は、幼少の頃、両親と共にこの町に住んでおりました。
 
 昭和十三年、私の二つ違いの弟・崇が生まれ、私が三歳、弟が一歳を過ぎた頃、母が、創価学会を通じて日蓮正宗に入信しました。その翌年には、父(編集室註:理事長・原島宏治氏)も母に説得されて入信しました。

 入信してからの両親の布教活動は、子供の眼から見ても驚くべきもので、蒲田支部の基礎を作っていったのです。

 さて、私の家の裏木戸をくぐると、そこは白木家の裏庭で、その家には私より三つほど年上の女の子がいて、名を「かね」とててました。その「かね」さんが、後に池田大作夫人となりました。

 私の両親の折伏によって、この白木家の人々が皆、入信しました。昭和十五、六年のことです。同じ頃、父の紹介で、教員仲間の小泉隆氏、小泉氏の紹介で辻武寿氏らが次々と入信しました。

 さらに辻さんが、蒲田の糀谷に住む三宅家を折伏しました。そして昭和二十二年になり、この三宅家の次女・淑子さんに連れられて初めて座談会会場に来たのが、まだ若かりし頃の池田大作でした。

 このように、池田氏と我が原島家とは、浅からぬ因縁があったのです。しかし、池田氏との因縁が深い、と感ずる父の思い入れこそが、後々まで池田氏の実態を見破れなかった大きな原因であった、と私は思います。



ニ、池田の怨念を買った白木氏

創価学会は、昭和三十年に、公明政治連盟を結成して政界に進出しました。私の父は、二十余年勤務した小学校の教員を辞めて、大田区議会議員に立候補、めでたく当選しました。しかし、それから一年も経つか経たぬかのうちに、今度は参議院に立候補することになったのです。

父のほかには、相原ヤスさん、白木義一郎氏(※「かね」さんのいとこ)ら、学会首脳数人が同時に立候補していました。

 その選挙の翌日、私は自宅でラジオの開票速報に耳を傾けていました。父や柏原ヤスさんの票が伸び悩み、落選が確実になった頃、大阪地方区から出馬していた白木義一郎氏の当確が報じられました。

 白木氏の選挙参謀はあの池田氏で、私は、日頃から父母が池田氏を高く評価していたことと思い合わせ、「さすがだ」と思いました。

 その翌日だったと記憶していますが、夜、池田氏が、大阪から凱旋(がいせん)して来ました。ちょうどその時、私は母と共に、お祝いを言うために池田宅を訪問していました。

 池田氏は、笑みを浮かべながら訪問客の待ち受ける部屋に入って来ました。私もお祝いを述べると共に、日頃から私の両親が池田氏を「人材中の人材」と褒(ほ)めていることを告げました。池田氏はそれを満足そうな様子で聞いていましたが、突然、表情が一変して険しくなり、腹の虫が治まらないという感じで、次のようなことを言ったのです。

 それは−−−大阪で、当選が決まって報道陣が白木氏のもとに集まり、いざ記念写真を撮る段になったところで、白木氏から「池田君、君はもういいから、奥の部屋へ行って待機していてくれ」と命じられ、自分は止むを得ずその場を退(しりぞ)かざるをえなかった、ということでした。(ちなみに、当時の新聞の写真に白木氏を中心に当選の万歳をしている人々の中に、池田氏は写っていないと思いますが、こういうわけがあったのです。)

 池田氏にとって、自分がないがしろにされたことは大変な屈辱(くつじょく)だったようで、遠く大阪にいる白木氏に向けられているであろう、その両眼は、怒りに燃えているでした。

その池田氏の姿に、はいささか興醍(きりざ)めじた気分で、池田家を出ました。そして、折に触れては、池田氏の怨念を買ってしまった白木義一郎氏の将来に思いをいたすようになりました。

その白木氏は、選挙に出る数年前までプロ野球の花形スターでした。昭和二十五年九月には、次のような報道がなされています。

 「九月二日、後楽園球場で東急フライヤーズの大下弘と白木儀一郎の両選手に、野球連盟ならびに球団から記念トロフィーと記念品が贈られた。大下が百本塁打、白木は七十四イニング三分の二無四球の世界記録を達成したため」(『昭和二万日の全記録』講談社)と。

 白木氏は、それはそれほど世間的にも著名な人でしたから、選挙の勝因も自らの名声にあるのであって、池田氏の力によるものではない、との自負の念があったのではないでしょうか。

 しかし、池田大作夫人の身内である白木氏が、政治家としてさしたる功績も残せないまま、いつの間にか表舞台から消え去っていったことを思う時、かつての夜の池田氏のすさまじい怒りが私の脳裏に浮かんでくるのです。


三、父・原島宏治の遺言

昭和三十九年の初夏のある朝、私が、勤行するために自宅の二階に上がって見ると、父がひとり何か考えごとをしていました。そして、私の顔を見ると、父はゆっくりとした口調で、

「池田会長から『近い将来、原島理事長は学会を離れ、創価大学の理事長として活躍されたらどうか』と言われた。おまえはどう思うか。』と言いました。

その時の父の様子から″突然、思い掛けないこと、理解しがたいことを言われた″という戸惑(とまど)いがうかがわれました。しかし私は、″ついに来るべき時が来た。池田会長は、理事長として学会の中枢にいる父の存在が邪魔になったのだと直感しました。ただ父の問いかけには答えようがないので黙っていました。

 ちなみに、私の弟の原島嵩(元・創価学会教学部長)は、後年の著書『池田大作 創価学会の真実』で、池田氏には当初から天下盗りの構想があったとして、

 「@まず、創価学会内にあって青年部を押さえる。A次に会長になり、創価学会の絶対的権力を手中におさめる。Bそして次の段階で宗門を支配下に置く。C…」と、天下盗り構想の図式Gまで述べています。

 昭和三十九年のその時の時点では、Aの段階ははぼ完了しており、次の「B宗門を支配下に置く」ことを目指す段階に来ていました。

 そして、Aの「創価学会の絶対的権力を手中におさめる」との段階を上がり切るには、最後の障害がありました。それは、創価学会理事長であり、さらに年内に公明党の結成が予定されているなか、その初代委員長に内定している原島宏治の存在です。

 ちなみに、竜年光氏(元・公明党都議)の著書の中に、「原島理事長は池田会長に対して、池田先生、先生と繰り返し呼び、へつらっていた」と記述されていたようですが、それは全くの誤認識です。私自身、父が直接にも間接にも池田氏を 「先生」と呼んだことを聞いたことはありませんし、父の著述の中でも池田氏に「先生」の称号を用いたことは一例もありません。

 父はいつも、池田氏のことを「池田会長」あるいは「池田さん」と呼んでおりました。逆に、会長になる前の池田氏は、時に私の父母に対して「お父さん」 「お母さん」と呼びかけて、母を喜ばせたりしていました。

 同年十一月十七日、公明党が結成され、父が同党の初代委員長に選出されました。そして、それからいくばくもない十二月九日朝、父は心筋梗塞(しんきんこうそく)のために五十五歳で急死しました。

 悲しみの醍(さ)めやらぬある日、弟の嵩が少し不思議そうな表情を浮かべながら、私に次のような話をしました。公明党結成直後のこと、父は、沖縄指導のため空港まで嵩を伴(ともな)って車中にいました。その車中で父は嵩に向って、「私は日蓮正宗の立派な一信者でありたい」と語ったというのです。

 「兄さん、これはどういう意味だろうね」と、弟は怪訝(けげん)な面持ちで私に問いかけました。無理もありません。当時の弟は、池田会長を「生涯の師」として敬愛し、一生忠誠を捧(ささ)げようと決意していたのですから。

 私はまたも本心を隠し、当たり障(さわ)りのないことを言って、その場を取り繕(つくろ)うしかありませんでした。弟が父のこの遺言を本当に理解したのは、池田氏と訣別して、日達正宗へ回帰してからです。

 父の一周忌法要の終了後、池田氏と私のほかに大幹部数人がその場にいるだけの時であったと思います。池田氏は私に、

 「原島理事長は、けっして私の事を先生と呼ばなかった」と話しかけてきました。そして、つぶやくように

 「私は、原島さんに、かつて一度たりとも心を許すことはなかった」と付け加えたのです。

 やはり、これが池田氏の父に対する本心だったのです。私は、原島一族の前途に、漠然(ばくぜん)とした、しかし言い知れぬ不安を抱きながら、池田氏と別れました。

 (つづく)




 創価学会青年部による元公明党議員の暗殺計画、クーデター計画!!




最近、この手の本にはさほど興味を持たなくなっている。亡くなられた山崎正友氏もそうだったが、もはや『創賊ネタ』に関してはネタ切れ、というべきではなかろうか。

これは創賊も同じ事で正宗誹謗のネタが切れたようで、(笑)、二番煎じどころか三番煎じやら『古ネタ』の使い廻しに終始している状況であろう。


矢野絢也氏の著作にしてもあまり期待はしていなかった。もはや『創賊ネタ』で、我々が知り得なかった新規のネタはあるまいと思っていたのである。この『黒い手帳』にしても、書店で購入して放っておいたものである。今回、暇つぶしに読んでみたが、中味は意外に濃密な内容であったことに驚いた。

創賊というものの低劣な正体が、ふんだんと暴かれていて読み出したら止まらず、いっきに読んでしまったのである。

民主党の小沢が矢野絢也氏を国会招致するのであれば、来年の参院選にむけでであろうと思われる。これにまつわって、宗教界の強姦王である池田大作をさらに国会喚問するとチラつかせて混迷党は完膚無きまでに封じられるだろう。

[矢野裁判で裁判所が認定した創賊と公明党の体質]

「創価学会青年部が怒っている」(高裁判決文一七頁)

「青年部は跳ね上がっている。矢野の命も危ない」(高裁判決文一七頁)

「土下座しろ」(高裁判決文一九頁)

「人命にかかわるかもしれない」(高裁判決文一九頁)

「あなたは息子がどうなってもよいのか」(高裁判決文一九頁)

「それを渡さないと皆怒り狂って何が起こるか分からない」(高裁判決文二○頁)

「渡さないなら覚悟はできていますね。」(高裁判決文二○頁)

「重大なことと云えばわかるだろう。矢野さんの身に危険が迫る」(高裁判決文二七頁)

「どうしてもだめなら、全党挙げて矢野さんをつけねらう」(高裁判決文三三頁)

「要求を拒めば、これらの多数の創価学会員ないし公明党員が矢野及びその家族に対してどのような危害を加えるかもしれない。」(高裁判決文四一頁)


以上、これらのヤクザまるだしの言辞は『創賊』及び『公明賊』が、矢野絢也氏を脅迫した内容で東京高裁が認定した内容である。


矢野絢也氏の叙勲がとりざたされている。これも創賊の仏敵である民主党が打った一手とも思われるのである。創賊の研究者は是非ともご一読をおすすめしたい。



 7万8423名の大石寺結集を寿ぐ、

 [創価チン報を持参した篠路(札幌)のバカ創賊] (笑)、

創賊の某より「会って話したいことがある」という電話があったので「おお、来いや」と云ったら、ほんとうに来たのである。(笑)、

創賊のチン報をかたてに「正宗は失敗したではないか」と云うので創賊のチンポウを見たら、空き席の多い大石寺の総会場だった。(苦笑)、

そこで、大白法の総会特集号の写真を見せるとみるみるうちにバカヅラが青さざめてきた。(笑)、






 随想・本化題目考 (了) [滅後 06]                  2009年9月2日 19:22:29


やれやれ、信心してから四十年になんなんとし、それまで思いついていたことを書き連ねてきた。

私の恩師である「玉沢研斉御尊師」から、「将来の広宣流布は邪宗との言論戦になるから青年のうちからしっかり勉強しておきなさい。宗旨だけではなく広く仏教や他の宗教について見聞し、何処の宗派が正宗に向かってきても破折出来るように教学を学びなさい」と云われ、発心して教学に向かってきた。

ぼちぼちここらあたりで卒業としたい。もちろんこれからも御書の研鑽は続けていくし宗門教学について深めていくのはあたりまえである。が、何事にも「一段落」というものがあるが、邪教を破折する力をつけるという目的には到達したものと考えている。

札幌の《創賊教宣部》で私の名前を知らないものはモグリであると、いささか面はゆい評価をいただき、またネット等のメディアを仲介として数多くの邪教を論破してきた。

私は一介の在家であり、在家としての教義知識は十分に摂取したと考えている。我々は僧侶と違い生涯にわたり専門的な天台教学や仏教学を追究する立場にはない。どころか正しい正宗の教えを、いかに世間に応用展開してゆくかというほうが切実な問題である。

しかも読みたい本は山ほど残っており、地学関係の本やら、記紀(古事記・日本書紀)も再ど通読したいし、日本の通史や古代史も読んでいないものが残っており、北海道の植物関係や郷土史も読みたいものがあり、趣味のサバイバル研究も深めたい。

というわけで、今回の原稿をもって、私が宗祖の教義と正宗について考えてきたすべての「想い」はいったん終わりとしたい。


何人かの『妙法同志』から、「難しくてわからんわ」等の批判を頂いたが、これは教科書などではなく私の正宗教学に対する個人的な所感であり、あくまで自分の想いを打ち込んだものである。最後は、日恭上人について考えた。


恭尊の問題ついては私も史料等を集めていたが、春になり子育ても終わって妙な開放感にひたり、原野に放たれた孤老・・・もしくは荒野をさまよう初老の男・・・もしくは、《野原をうろつくホイトジジイ》の状態にあり、なかなか纏めるまでに至らなかった。(汗)、


日恭上人の御最後については当時の宗門の中では渋田師のように、この方は北海道の深川・宝龍寺の住職でもあったのだが、他にも宗門全体への仏罰≠ニ広言する方もおられたようだが、現象面から論ずれば敗戦による国体崩壊という状況からの反省≠フ言葉も出てこようが、日恭上人のお人柄をしのび、当時の宗門の出家気質をみれば、あながちこのような評価はあたらないと断ずる。


榎木境道師が編纂された「富士の法統」には日恭上人の御弟子方による追憶談が多く掲載されており非常に参考になる。日恭上人の遷化にまつわっては、

「翌日、日恭上人の御遺体が発見されましたが、日恭上人は部屋の中側から鍵を掛けられ、覚悟の最後を遂げられたと伺いました」(富士の法統・196頁)との、当時の状況が載せられている。


この時代背景は多くの方々が御存知のとおり、終戦間近に大石寺の書院が軍部に接収されて宿舎となった。書院には神棚がまつられ、内事部が抗議したが受け入れられるはずもなく、

ある日夜半に酒に酔った軍人が何かのトラブルを起こして出火(放火とも云われている)し、隣接していた大奥に火が回り翌日早朝に日恭上人は崩れ落ちた柱の中から、合掌して臥せられているすがたで発見された。


 [火焔の恐怖]

以下は東京消防庁のHP、「消防雑学事典・デパート火災余話」からの、白木屋デパート火災からの引用である。

「昭和7(1932)年12月16日、日本橋白木屋百貨店(元・東急日本橋店)は、歳末大売出しとクリスマスセールが重なり、店内は華やかな飾りつけがなされていました。開店前の点検でクリスマスツリーの豆電球の故障を発見して修理しようとしたとき、誤って電線がソケットに触れたためスパークによる火花が飛び散り、それが着火して火災になりました。

【白木屋の火災を伝える読売新聞号外】

これが、昭和に入って初めての高層建築物の火災で、白木屋の火災といわれるものです。日本橋消防署の望楼勤務員がこの火災を発見し、直ちに消防職員・消防組員799人、ポンプ車29台、はしご車3台、水管自動車(ホース運搬車)2台などが出場し、当時としては最大規模の消防力をもって、消火活動に当たりました。この火災は、8階建てのビルの4階以上を約14,000平方メートル焼失し、5,009,000円(当時価)の損害に加えて、火災による死者が1人、墜落による死者が13人、傷者が67人という惨事となりました。

−以下略−




以上だが、多くの犠牲者は、飛び降りたり、帯や避雷針などで脱出しようとして失敗したことによる転落死だったことが事実のようであるが、女性が綱を巻いて下降するさい、着物のすそが乱れるのを気にして片手を綱から放して着物のすそを押さえ、体を支えきれずに転落死したという説もあるが、これには異論もあるようだが今の所談ではない。

海外を問わず多くの大火災のニュース報道で、火炎に追われて高層から飛び降りる場面が見られるが、火とはそれほど恐ろしいものなのである。ようするに火炎に追われたら高層からでも決死の飛び降りを敢行することがあるのだ。



 [日恭上人は自決の道を選ばれた]

日恭上人は脱出する前に、やらなければならないことが二つあった。

一には寝間着から衣に着替えることであり、二には大奥安置の御本尊のお供をすることである。

一の着替えについては、日恭上人が発見されたとき出家の正装姿であったことから、寝間着から衣に着替えられていたことは確実である。

そもそもである、富士門流の総本山である大石寺の御法主が寝間着姿で三衣を放って逃げ出した、となれば世間の物笑いであり、歴代の権威を失墜することは確実で、ご人格が法に愚直であられた日恭上人には死に勝る恥辱であったろう。

『富士の法統』には、

「なにしろ小僧たちによくお菓子などを作ってくださった方だったから、甘いものがお好きだったのかな?(笑)。これは正継寺さんも言っていたけど、日霑上人(総本山第五十二世。日恭上人の御師範)に叱られる時に、大ぜいいた弟子が日霑上人が出てこられた時には皆逃げてしまって、日恭上人が一人で怒られていたってね。(編集部)はい、お聞きしています。堀上人が「お前の師匠はそういう人だったのだよ」とおっしゃっていたと伺っています。」(富士の法統・374頁)


弟子のお小僧様に優しく、師匠である日霑上人のお叱りには日亨上人でさえすっ飛んで逃げ出す始末のときでも、日恭上人は御師範のお叱りをしっかりと受け止めた師孝の方である。

しかし、学究の日亨上人や他の出家の方々が、日霑上人のお怒りの前ではスタコラと逃げ出す始末とは、ほのぼのとした逸話ではなかろうか。(笑)、


余談だが、札幌の直唱寺の関係者に『池田大作』の警備(特警)をした人物がいて、大作が創賊の大衆を相手に放言をブッているあいだに、尊敬する大作のイスに座って感激にひたっていたら、大作が帰ってきてワケノワカラナイことをワメキチラシながら、なんと、大作は手にした数珠で、その警備の青年を殴りつけたという武勇伝がある。(爆笑)、

ま、池田大作のような強姦野郎は別として、御法門に厳格な大石寺の法主上人がお弟子の教育のためにお怒りになられる次元はまったく別物であろう。(笑)、


このように仏法に対して極めて愚直な日恭上人であるから、火災にさいして大奥の内仏様を放って逃げ出すことは考えられないものである。

その御本尊が御板であったか紙幅の御本尊であったかは知り得ないが、御板であれば清楚な布にお巻きし、紙幅の御本尊であれば、お巻きして袱紗に包んで懐中に保護してお供をすることは、法に命を捧げた方であれば当然のことであろう。

現に、戦前の日本領であった樺太の正宗寺院である『開道寺』に住職として赴任していた『辰野開道師』は、御本尊に殉教して広布の花として散っているのである。

この逸話は愚輩の本編に保存してあるが、あらためて要旨を提出したい。以下。


(日達上人全集 第二輯 第七巻 六十三頁)

師は若い頃、女性問題を引き起こし、本山で種々問題になったそうです。そして鼻つまみ者の様になって無為の日々を過ごしておられたという事です。 そして、正宗が樺太の真岡に教会所を作った時、五十近くで一念発起して樺太に渡り、その教会の住職になられ、極寒の地樺太で、懸命に広宣流布の為に頑張られた。その事について、当時の信徒さんから私が直接聞いた話をご紹介させて頂きます。

 「当時、真岡の開法寺が、樺太全土でたったひとつの日蓮正宗寺院で、お講には樺太中から随分たくさんの人が集まりました。当時はバスなどなく、樺太全土から汽車でやってきて、皆さん駅から歩いて来たと思います。 樺太はものすごく寒い土地で、零下三十度にもなり、お寺に来るのが本当に大変です。そこで、信徒さんに、お寺でカレーライスの炊き出しをしました。十二の班に分かれて月毎に班で担当して炊き出しを手伝った記憶があります。

 御住職様(辰野師)は、当時既に六十を過ぎていらして、一人暮らしをされていましたが、講の人のお子さんをよく面倒を見て下さいました。また、講の方で困った方のお子さんを、あずかって面倒を見ていらっしゃっいました。」

終戦となり、ソ連軍の侵攻が始まったが、老齢の辰野師はお寺の板御本尊様を持って内地へ逃げる事が出来ない。 そこで、自分が祈ることで信者さんだけは無事に内地に帰れるようにと、炎の迫る本堂で一生懸命にお題目を上げられ、そこで亡くなられたそうです。その事についての日達上人様の御文をご紹介させていただきます。

 「さて、その辰野開道師はあの終戦の時、その前に樺太に日蓮正宗の信者が増えて、樺太の真岡に教会を造りました。その教会へ、とにかく自分は今まで非常に人々から非難され、抗議ばかりされた。自分はこの寒い樺太へ行って奮起しよう、と。

 すでに齢も四十いくつ、五十近くになっておっただろうと思います。そして北海道へ行って、樺太の真岡において一生懸命修行しておりました。たまたまこの大戦に日本は負けた。ソ連は即座に樺太を占領した。 ある日、艦砲射撃はその真岡の町を撃ち、いたる所燃えてしまった。正宗の信者も皆帰る。婦人を始めとして皆帰るようになった。しかし辰野開道師は、もうこの御本尊様を背負って行ってもソ連の捕虜になる。

自分はこの御本尊様を持ってここへ布教に来たのである。この御本尊を内地へ移せない。その時すでに艦砲射撃によって周りはすっかり焼き払われた。 そこで辰野開道師は太鼓を叩いて、自分のこの祈りによって信者は皆内地に帰れるようにと、一生懸命にお題目を上げた。ついに寺に火がついた。そして寺は燃えて、太鼓の音はまだ間こえておったそうです。 寺の焼け落ちるとともに、御本尊とともに、大鼓の音が消えた。そこで辰野師は亡くなったのであります。」




以上、生まれ落ちて与えられた尊い生命を、大御本尊に殉ずるということは、正宗に於いてはあるのだ。


そして、このような正宗僧侶の心意気は特別のものではなく、帝都の正宗寺院の僧侶には見られたものである。日恭上人が炎の中に遷化した時代の正宗僧侶の心意気を示す事跡を、再々度『富士の法統』から引用したい。


「その大空襲の時、いざ「空襲」と言われ、本堂にすっとんで窓を開けた時には、すでに前の本行寺の側は火の海でした。御住職の日昇上人は白衣とモンペのお姿で「自分はお寺と運命をともにする!」との断固たる決意でいらっしゃいましたので、私も猊下の驥尾に付して、猊下とともにお寺をお守りする決意でいました」(富士の法統・242頁)


この証言に気骨ある日本男子の心意気を見るのであり、日蓮正宗の僧侶は寺と殉ずる覚悟を持っていた。上記の樺太寺院の住職たる辰野師に見るが如く、日昇上人が常在寺とともに死ぬ覚悟を示したごとく、日恭上人は火炎の中で日蓮正宗の三衣を正装して御本尊に殉じられたと拝察される。


日恭上人は火炎の中で悠々と着替えを済ませ、脱出を断念して内側から鍵をかけ、それから内仏の御本尊に向かい、意識のある限りお題目を唱えつづけたものである。内側から鍵をかけられたのは断固たる決意によって外界を遮断されたものと拝される。


もし、日恭上人が三衣も御本尊(内仏様)も捨てて脱出して生き延びたならば、日蓮正宗の正統たる仏法の権威は失墜したであろう、これが事件の背後に存した正宗の僧侶気質たる実相である。


結果として、日恭上人は三衣を着たすがたで、内仏様に拝礼したかたちで遷化されていたのであり、いわゆる焼死という焼け焦げたようなものではなく、火炎の周回に伴う一酸化炭素の摂取による遷化であったものと推察される。



〈余話〉

正宗の、明治から大正・昭和にいたる時期に、大石寺の高僧に自らつきまとい、宗政に関与した形跡が見られる出家が宗門より破門され、怨念熾盛に燃えて、あらん限りの悪口誹謗を捏造して広言した出家がいたようである。

これを正宗誹謗のネタに採用したのが日蓮宗の学者であった『安永弁哲・立正大学教授』である。(笑)、

ヤスベン氏は云う、日恭上人は火災にさいし脱出しそこなって階下のカマドにはまり『残った内蔵のみで葬儀をあげた』と。

この情報に飛びついて正宗誹謗の根拠として採用したのが、『宗教法人創価学会の教学研究者』たちである。(笑)、

北海道における『創価学会札幌総合本部・教宣部』という篠路(しのろ)の創賊教学部員が自信たっぷりに上記を演説した。そこで私はこう聞いたのである。

「日恭上人であろうが一般人であろうが、体を焼かれて最後に残るのは『骨』ではないか、骨を焼け失って内蔵が残るとは科学の常識にそぐわないのではないかナ、」


と云ったところ、創価学会札幌本部・篠路の教宣部員は体を震わして口をパクパクさせるのみであった。(笑)、

もし、日恭上人が、火炎によって骨が焼き失せて、内臓だけが残ったとしたら『Xフアィル』に取り上げられることは確実である。宗教法人・創価学会というシステムは『Xファイル』の信奉団体なのであろうか?(苦笑)、


正宗から破門された退転坊主の浮言を利用し立正大学の教授・・・というか『狂授』のホラは『破綻』の宿命を持っていたにもか関わらず、このような非論理を利用した創賊共のホラも一蹴しておく。(苦笑)、


本化題目考


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