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「宗教法人の税制についてご検討いただけませんか。国民的な視点からいえば、問題ありという声が非常に多い。宗教法人に対する税の在り方を、私は民主党だからこそ見直すべきではないかという気がしております」 政府税調の座長役(主査)である峰崎直樹・財務副大臣は今年5月の参院予算委員会で「宗教法人への課税に関する集中審議」を申し入れるなど、野党時代から宗教法人問題に強い関心を持っている。峰崎氏は増子氏の提案を待ってましたとばかりにこう引き取った。 「しっかり提起を受け止めて、どうするかを皆さんにご相談したい」 自公政権下で「タブー」とされていた《宗教法人課税》という重大テーマが鳩山政権の取り組むべき課題に浮上した瞬間だった。 現在宗教法人は全国に18万もあり、様々な税制上の優遇措置を受けている。 お布施や戒名料など宗教活動による収入は非課税で、各地にある立派な宗教施設にも、不動産取得税、固定資産税などはかからない。さらに有料駐車場といった営利事業にも、低い税率が適用される。 そうした優遇措置を悪用した脱税は後を絶たない。今年6月には宗教法人がラブホテルを経営し、利用料の一部を「お布施」と偽って約14億円を脱税していた事件が摘発されたが、氷山の一角と見られている。 増子副大臣の指摘のように、不況で国の税収が落ち込む中、宗教法人が非課税で集めた資金で巨大な宗教施設を建て、大々的にCMを流していることに釈然としない国民は少なくない。 過去、宗教法人への課税強化は何度も国会で議論されたが、これまで実現しなかった。そこにメスを入れようと動き出したのである。 とはいえ、この時期に宗教法人課税論議が浮上した理由は、単に税収増や不公正な税制の是正というだけではない。 政治評詮家の浅川博忠氏は、背景に、小沢一郎・党幹事長の公明党・創価学会≠ノ対する宣戦布告≠フ意味が込められていると見る。 「来年夏の参院選、再来年には統一地方選が控えており、選挙の指揮を執る小沢氏は、今のうちに公明党・創価学会のカを削ぎたい。 小沢氏の戦略は2段階分かれている。まず参院選前に公明党を自民党から引き剥がす。そのために小沢氏は公明党が推進する外国人参政権法案の提出に前向きな姿勢を見せた。自民党内にはこの法案に抵抗が強く、自公連立でも実現できなかった。だから民主党が法案を提出すれば公明党は自民党と分断される。その上で、いよいよ宗教法人課税の強化に乗り出す順番ではないか。宗教法人課税は創価学会の最大の弱点を突くことになる。兵糧攻めでひれ伏せさせるつもりでしょう」 民主党内では、創価学会批判の急先鉢で小沢氏の信頼厚い石井一・選対委員長が宗教法人課税に積極的とされ、前述の峰崎財務副大臣も国会で公明党と創価学会の政教一致問題を追及してきた。まさに政府・民主党執行部一体で攻勢に出ようとしていると出見ていい。 [「課税額1700億円」の可能性] 仮に、鳩山政権が人宗教法人への税制優遇を一律に廃止するとすれば、創価学会ばかりか日本の宗教界全体がパニックに陥りかねない。 それでも、小沢氏は11月10日に高野山の真言宗総本山「金剛峯寺」を訪れ、全日本仏教会会長でもある松長有慶管長と会談するなど、宗教界への根回しとも取れる動きを見せている。 憲法学者で税法学の専門家でもある北野弘久・日本大学名誉教授は、課税強化によるダメージは宗教法人の政治活動の有無がポイントになると指摘する。 「米国にも宗教法人や公益法人への税制優遇制度はあるが、組織として政治活動をしないというのが大前提です。例えば宗教法人に所属する牧師などが職務上政治的発言をすれば、国税庁はそれを確認した時点で宗教法人の免税を剥奪するほど厳しい。公益認定は個別に調査して決められます。 日本でも06年の公益法人改革で官庁が公益性の認定をする仕組みになりましたが、宗教法人は対象外でした。民主党はその仕組みを宗教法人にも適用すべきと考えているのだと思います。一般の神社仏閣や宗教法人なら公益性の認定を受けることができるが、創価学会のように政治と宗教が未分離で、政治性の強い活動をしている場合、税制優遇の可否を個別に判断する」 だとすれば、それこそ公明党・創価学会狙い撃ち≠フ色彩が強くなる。 創価学会への税制優遇措置が撤廃された場合、どのくらい負担が増えるのか。 宗教法人には経理情報を公開する義務はなく、創価学会の経済活動の全体像はベールに包まれている。そのため、民主党側は、宗教法人課税で創価学会にどのくらいの影響が出るかを探るために、公明党と学会の内情を知る矢野絢也・元公明党委員長に相談しているとの情報がある。 矢野氏にぶつけると、否定はしなかった。 「まァ、相談には来ているよ。民主党の誰がいってきたか、どんな相談かは私からいうべきことではない」 そこで本誌は公表数字などから学会資産の一端を類推してみた。 まず創価学会の宗教法人としての収益事業には、機関紙『聖教新聞』の発行や墓園事業などがある。聖教新聞の公称部数は550万部、購読料は月額1880円であり、機関紙部門だけで年間1034億円の売り上げと試算できる。ちなみに創価学会の05年の収益事業の法人申告所得(利益)は「165億円」(その後は公示制度廃止で非公表)。 さらに東京・信濃町の本部関連施設をはじめ、全国に文化会館、池田講堂、平和会館などの施設を建設している。宗教法人法改正が審議された95年の国会で、熊代昭彦・自民党代議士(当時)はこう指摘している。 「創価学会は不動産9兆円、流動資産1兆円という堂々たる力を持っておられる」 そうした施設のうちどれが宗教施設として不動産取得税や固定資産税を免除されるかは公表されていないが、前出の北野名誉教授は、課税額をこう試算する。 「創価学会の05年の申告所得から計算すると、収益事業の法人税、住民税、法人事業税の優遇措置が廃止されれば課税総額は3税で約66億円程度と考えられます。もっと大きいのは不動産資産への課税でしょう。都市都では固定資産税と都市計画税で1・7%が課せられる。国会で指摘されたように創価学会の不動産資産が9兆円あり、流動資産の1兆円も施設内の備品など固定資産だと仮定すれば、年。間1700億円近く課税される可能性があります」 こうした巨額の税負担を課す宗教法人課税は、小沢氏の持論である、とかつての側近である平野貞夫・元参院議員はいう。 「小沢さんは従来から宗教法人も他の公益法人と同じように応分の税金を払うべきだと考えていました。公明グループと連係していた新進党時代も、彼らに堂々といっていましたよ」 だが、創価学会に対して、宗教法人課税が論議されていることへの見解を問うたが「(その動きについて)承知していないので答えられない」(広報室)とした。 [創価学会に対する踏み絵‐ 小沢氏と公明党・創価学会には、深い怨念≠ェある。 細川政権で公明党と連立を組んだ小沢氏は、その後の新進党結成でいったん公明党を吸収した。両者の蜜月関係に見えた。 小沢側近が語る。 「小沢さんは公明党という宗教色の強い政党の存在は2大政党による議会制民主主義の邪魔になると考えていた。だから、公明党を新進党に吸収することで、他の宗教団体と同列の支持団体の一つとして政治的影響力を削ごうとした。それなら問題がない」 ところが、自民党は宗教。法人法改正で創価学会批判を強めて分断工作を展開し、新進党内部の旧公明党勢力が動揺してガタガタになり、ついに党は内部崩壊した。 小沢氏の2大政党制への試みは潰えたのである。 2回目は自自公連立の崩壊だった。 小沢氏は新進党解党後に旧公明党と決を分かって自由党を結成し、少数与党の小渕政権と「衆院比例定数の50人削減」などの政策合意を結んで自自連立を組んだ。そこに再結成された公明党が連立に加わると、公明党の抵抗で自自連立合意は反故にされ、定数削減は20人に減らされた。しかも、公明党という新たな連立のパートナーを得た自民党は逆に自由党の切り崩し工作を強め、小沢氏はついに連立を離脱した。 「公明党は結局、創価学会の組織を守るための政党から脱皮できなかった。自民党に擦り寄ったのも学会批判に懲りたからであり、その結果、自民党政権の延命に力を貸してきた。2度も公明党・創価学会に煮え湯を飲まされた小沢さんは、政権を取った今こそ、公明党という政治勢力を国政から退場させようと考えている」(前出の小沢側近) 宗教法人課税の強化も、創価学会に「政治活動からの撤退」で税制優遇措置を受けるか、それとも「重い課税」を覚悟して政治活動を続けるかの潜み絵≠迫るものだとみれば小沢氏の意図がわかりやすい。 小沢氏が次に見据えているトドメの一手が、自自連立時代に成し遂げることができなかった衆院定数の大幅削減だ。民主党はマニフエストで「比例定数の80削減」を掲げている。公明党は総選挙で太田昭宏・前代表以下、小選挙区から出馬した候補全員が落選し、いまや衆院では比例政党となっており、その上、比例定数が80削減されれば国政政党としての存続まで危うくなる。 創価学会の地方幹部の一人はこう語る。 「信濃町(学会本部)は小沢氏の出方におびえている。公明党は自民党との10年間の連立で政党としての市民権を得たと考えてきたが、国会の宗教法人課税審議で政治活動が批判されると、かつてのように社会の風当たりが強くなるし、会員も動揺する。小沢氏が宗教団体は政治に口出しするなと無言の圧力をかけてきているとすれば、民主党に擦り寄るだけでは解決しない」 新進党解党から12年の時が経とうとしている。悲願だった政権奪取を成し遂げた今、小沢氏と創価学会の「最終戦争」が激しく火花を散らすことになりそうだ。
※以前、『慧妙』紙に、理境坊信徒でもと創価学会広報部副部長・小川頼宣氏との対談が掲載され、樋田氏のサイトにも掲載されている。 現在、創賊の謗法を責め立てるために戸田城聖がしばしば引用されていて、法華講員の中にも戸田城聖を高く評価するむきがあるが、もし、戸田城聖を評価するのであれば戸田が論じた正宗誹謗をも肯定するのであろうか。 戸田城聖は内部に対しては正宗誹謗と創賊の絶対化を、対外部に対しては耳障りのよい建前を論じたが、実質的に現在の創賊の『反宗門体質』を醸造したのは戸田城聖であると云っておきたい。これは近々概略的に述べてみたいと思っている。已下は、当該対談の本文である。 『けっして触れたくなかった真実』___ 創価学会はいつから誤っていたのか!? 創価学会が今日のような大謗法団体となってしまった原因について、これまで様々な分析がなされてきた。その大半は、第三代会長・池田大作の無信心・大慢心に起因する、との見方であるが、はたして、それが全てといえるだろうか。 「源にご(濁)りぬればなが(流)れきよ(浄)からず」(御書八二七)との御金言もあるように、真に清浄なる源から突如として濁流が流れ出す、ということは考え難い。 やはり池田の大謗法を生む要因は、それ以前から学会の中に伏在していた、と見るべきであろう。この対談は、今まで触れられなかった、二代会長当時の誤りについて言及したものである。 話し手=元・創価学会広報部副部長:小川頼宣氏、元・聖教新聞社職員:原島昭氏 戸田会長の忠誠と、行き過ぎた宗門批判=w強信者≠ニいえど仏法の裁きは厳然』 【小川】 いろいろお伺いする前に私の想いを申し上げておきたいのですが、私は戸田城聖会長を心から尊敬しています。それは牧口氏や池田大作と違って、戸田会長は、戒壇の大御本尊を唯一絶対と信奉し、代々の御法主上人を大聖人と仰いで忠誠を尽くしたからです。 【原島】 そうですか。 【小川】 ところが、どうしても引っ掛かる点があって、いつかはハッキリさせなければいけない、と思ってきました。 それは、戸田会長の数多くの論述の中で、ただ一つ「創価学会の歴史と確信」と題する論文の中に、日蓮正宗宗門を揶揄し批判した内容があること。 また、当時の『聖教新聞』の「寸鉄」欄に、宗門御僧侶方に対する酷い悪口が、それこそ口を極めて書いてある。 たとえば、学会がこれだけ折伏したのに宗門は大事にしてくれない、という感情から書き殴ったと思われるものの中には、「生臭坊主」「糞坊主」「狐坊主」から始まって「化物坊主」「第六天坊主」などという書き方がしてあります。 それから、学会で御書全集の発刊を発願した時に、諸般の事情で宗門を挙げて協力してもらえなかったことについては、「御山でゴシュ(御酒)は作ってもゴショ(御書)は作れぬ坊主が居るってね」 などと揶揄していますし、昭和二十七年のいわゆる狸祭り事件≠ニ呼ばれる騒動で、いかに謗法行為を憎んだからといっても、すでに反省悔悟している某御僧侶に対し、総本山内で大勢の学会員が暴行に及び、後日、その行為について、宗門から厳しく処分があったところ、「寸鉄」では、 「忠義を尽くして謗法を責めて御褒美あるかと思うたに、おほめはなくて『登山まかりならん』とおしかりさ。弟子一同『俺達も一緒に登らんわい、フン』だってさ」 「宗会議員の諸公は三類の敵人中、第二類か第三類か、ニヤリ」などと不遜極まりないことを書いています。 また、その翌年の「寸鉄」では、 「坊主の仕事は衆生を成仏させる事だが、自分が成仏出来るかどうか考えた事があるのか」等、さらに口汚ない悪口誹謗がなされています。 これらは、記名記事ではないものの、学会の中では「戸田会長が執筆した」というのが通説となっていますし、仮にそうでないとしても、こんな内容を機関紙に連日のように載せていた、責任者としての失は免れないと思います。 【原島】 そうですね。じつは昭和二十五年頃の学会の座談会で、「歌を忘れたカナリア」という童謡を歌っていたことがあるんです。それは、辻武寿理事が幹部会で皆に歌わせ、戸田先生も認めたことから始まったそうですが、歌を忘れたカナリアというのは、折伏を忘れた日蓮正宗の御僧侶と法華講のことを指している、とのことでした。 いくら学会が大折伏をしている、といっても、これは信心の姿勢から言えば傲り、驕慢ですよね。 それから、先程の「ゴシュ」と「ゴショ」というのは、戸田先生が好んで用いていた洒落ですね。私の家には、戸田先生から戴いた「御書会も御酒会も同じ法の友 霊山までも飲みに行かなむ」という色紙もあります。このことから見て、先程の「寸鉄」を書いたのは、やはり戸田先生なのでしょうね。 【小川】 ですから私は、戸田会長の信心は、根本のところでは立派であったと思うんですが、同時に見過ごすことのできない瑕瑾もあった、というのが事実だと思います。 おそらく、それは、戸田会長が心底から敬愛した牧口常三郎氏の獄死に対する無念の想いと、講義の最中でもウイスキーをガブ呑みしていた程の酷いアルコールの影響が相俟って、時折に宗門誹謗の言動が飛び出してしまったのではないか、と考えます。 【原島】 なるほど。 「師匠が地獄の相で死んで」と池田___真の追善供養は正邪を峻別してこそ 【小川】 それから、これを述べることは私としても本当に断腸の思いですが、仏法の因果を覆い隠すわけにはいかないので、お話します。 池田大作が三代会長に就任した翌日、原島嵩氏に 「君は、私の弟子になるか!弟子というものは、師匠が地獄の相で死んでいったとしても、疑わずに、自分も共に地獄へついて行くというのが弟子だ!」(『前進』昭和五十二年五月号)と語った、というのは有名な話ですが、私はこの内容に引っ掛かりました。 というのは、池田大作が語ったのは、単に「師匠が地獄に堕ちても疑わずについて行く」という、一般論的なものではなく、「師匠が地獄の相で死んでいったとしても」という、極めて具体的な表現です。 原島嵩氏も、この衝撃的な表現が印象に残ったからこそ、そのように記録したと思うんですが、私は、これは池田の実体験に基づく発言ではないか、と感じたわけです。 そして、いろいろ調べていったところ、原島さんのお父さんである原島宏治氏(※故人。学会理事長・公明党初代委員長を歴任)が戸田会長の臨終の相を拝見しており、それによると、口が大きく開いてしまっていた、と___。 【原島】………。 【小川】 このことは関係者も固く口を閉ざしていますし、私も数年前に知って以来、途方に暮れて、口外せずにきました。しかし、大聖人は、 「此の人は地獄に堕ちぬ乃至人天とはみへて候を、世間の人々或は師匠・父母等の臨終の相をかくして西方浄土往生とのみ申し候。悲しいかな、師匠は悪道に堕ちて多くの苦しのびがたければ、弟子はとゞまりゐて師の臨終をさんだん(賛嘆)し、地獄の苦を増長せしむる。譬へばつみ(罪)ふかき者を口をふさいできうもん(糾問)し、はれ物の口をあけずしてや(病)まするがごとし」 (御書一四八二) と仰せられています。いたたまれない思いではありますが、このことをどこかで明らかにしなければ、学会初期からの宗門誹謗が、あたかも正しい信仰として罷り通ってしまい、かえって、いつまでも戸田会長の苦を増長させることになって、真の追善供養にならない、と思うのです。 【原島】 そのとおりですね。私もそう思います。……父がそのように述べていた、ということは知りませんでしたが、じつは、私も見ているんです。 戸田先生の葬儀において、斎場でいよいよ最後のお別れということになり、棺の蓋が開けられた時に拝見しました。他にも私の前後に、棺の傍らでお別れの対面をした本部職員が数人いました。 それは、大聖人様が仰せられているような成仏の相や、私の身内が亡くなった時の色白で半眼半口で柔らかな相とは、全く違う、苦悶の相でした。口が大きく開いて、色も黒くなっており――。 私は、それで当時の創価学会の在り方に疑問を持ち、もう、心からは従えなくなったんです。 【小川】 やっぱり、そうでしたか。 私は、池田が原島嵩氏に話した内容からみて、この戸田会長の臨終を池田がどう捉えたか、というと、池田は、戸田会長の信心の瑕瑾に気付くのではなく、むしろ、「あれほど信心一筋に頑張ってきた師匠でも地獄の相で死んでいった、地獄も仏も無かったのだ」と受け止めたのだろうと思います。 つまり、この瞬間に、池田大作の中にわずか残っていたかもしれない信心のカケラも、根本的に吹き飛んでしまった。 だからこそ、池田は、御本尊模刻・血脈否定・戒壇大御本尊蔑視・宗門誹謗等々といった大謗法を、恐れ気もなく犯し、自身の天下盗り≠ニいう野望に突っ走ることができたのに違いありません。 【原島】 そのとおりだと思いますね。 【小川】 「源にご(濁)りぬればなが(流)れきよ(浄)からず」(御書八二七) との御金言もありますが、私はこの際、創価学会の謗法化の原因を全て明らかにして、二度と再び同じことを起こさない、その指標とすることが大切だと思います。 そのために、明らかにしたくないことも、あえて明らかにせざるをえない、というのは、やむをえないことだと考えます。 そして、戸田会長の大きな遺徳は遺徳として、その恩を被っている者が、今度は正しい日蓮正宗の信心をもって仏祖三宝に御奉公していく、その功徳が全て戸田会長に巡っていくものと信じます。 【原島】 そうですね。それが『報恩抄』にも示される報恩と追善供養の在り方だと思います。 私としても、戸田先生は父母が長年、師と仰いだ方です。これまで一言も他人に洩らさずに来た、戸田先生の臨終について述べるのは、身を切られるように辛いものがありますが、令法久住のために、また戸田先生に対する真の追善供養のためになるなら、きっと先生も喜んで許してくださるものと信じています。 【小川】 ともあれ、創価学会ができた昭和初期の頃は、まだ本宗信徒の中に正しい信心の在り方というものが徹底しておらず、そのため、時として、宗門軽視や在家中心主義を叫ぶ法華講員も出てきたようです。 それは今日で見れば異端ですが、そうした中の突出した一人として牧口常三郎氏が現われ、また、その思想的影響を、そのまま全てとはいいませんが、かなり戸田会長も受けていたのだと思います。 したがって今日の私達は、過去に創価学会で教えていたことなどに一切捉われることなく、あくまでも、日興上人の御遺誡置文や日有上人の化儀抄に示される、本宗の正しい信心の在り方を一から学び、身に付けていくことが大切でしょうね。
[その二] [それは戸田会長時代から始まっていた] 私が学会に不信を抱(いだ)いた理由(わけ) (理境坊信徒・原島昭=元東洋哲学研究所・研究員) 四、不信感の芽生えと拡大 前回、「父(原島宏治)が私的な場面で池田氏を『先生』と呼んだことを聞いたことはないし、父の著述の中でも池田氏に『先生』の称号を用いたことはない」と述べました。 より正確に言ったならば、創価学会の幹部会や『聖教新聞』『大白蓮華』といった公の場では、「池田先生」と称することはありましたが、その場合でも必要最小限の使用に止どめていた、ということです。もちろん、池田氏を仏として称賛するような言葉は全くありません。 そういう父でしたので、とても池田氏のお気に召すはずがなかったのです。 また、前回、家族の中では私だけが初期の段階から池田氏の本性を見抜いていたかのように述べましたが、それは私が優れた洞察力の持ち主だったからではなくて、私が特に疑い深く、池田氏のことも最初から疑いの眼で見ていたからでした。私がこうしたねじけた物の見方をするようになったのは、多分に創価学会二代会長・戸田城聖氏の影響でもあります。 次にその経緯について述べてみたいと思います。 [衝撃@戸田氏の金融業] 戸田氏は、戦前から出版業を営むかたわら、金融業にも手を染めていました。昭和十六、七年頃のこと、まだ幼かった私が夜中にふと目を覚ますと、両親が部屋の隅に寄せたテーブルに向かい合って、何やら作業をしていました。そのテーブルには紙幣がうずたかく積まれており、両親は、それを数えながら束にしていたのです。 主に十円紙幣だったと思いますが、当時の父の給与は百円に届かず、バナナが一束十銭の時代です。テーブルの上にいくつもの山を作っている紙幣は、今の金額に換算すれば、おそらく数千万円、あるいは一億円を超えていたのではないでしょうか。 後になって知ったことですが、そのお金は、母の実父・高松甲子男が戸田氏の金融会社に出資する、ということで両親に預けたものだったのです。 それから六、七年が経って、やはり夜中に目を覚ますと、両親が何やら深刻そうな顔つきで話し合っていました。 父が「高松のお父さんに連絡は取れたか」と母に尋ねますと、母は「まだ取れていません。父には本当に気の毒なことをしました」と答えていました。 なんと、昭和十八年に戸田氏が牧口初代会長と共に治安維持法違反で逮捕・投獄されたことによって、その会社は倒産し、祖父の預金も全て貸し倒れになってしまったのです。 私の母は、どういう事情か、実の父親とは幼い頃に生き別れになっており、長じてからようやく巡り会えて親交をもつようになったようです。私にとって祖父に当たる高松甲子男は、孫の私を大変可愛がってくれました。ところが、戸田氏の金融業のために大損害をこうむった後は、祖父と私達家族との交流は全く途絶えてしまいました。 そうしたことを見聞きし、私の心には戸田氏に対して、少なからず不信感が芽生えたのです。 なお、戸田氏の金融業に出資して損をした人はかなり大勢いたようです。私の中学時代の校長だった方もその一人だったらしく、昭和五十六年、同窓会で久しぶりにお会いした折、私達教え子に向かって、「昔、戸田氏に多額の出資をして大損した」と声を荒げて語っていました。 [衝撃A 雑司ヶ谷の夜] 昭和二十二年の春の夜、当時の私達の住まいであった雑司ケ谷の家に戸田氏が訪ねて来ました。戸田氏はだいぶ酔っているようでしたが、両親は、尊敬している戸田氏の訪問に大喜びでした。 戸田氏は、弟・嵩と将棋をさしたり、まだ生後二、三ケ月だった下の弟・弘の小さな掌をとって、手相を見たりしていました。嵩と私の手相も見ました。 そして、母に抱かれている弘を指して、「この子は世界の父になる」と言いました。嵩が「ぽくは?」と尋ねると、「嵩は世界の父の門番になる」と答えました。私より気性の烈しい嵩は怒り、「門番とは、何を言うんですか!」と戸田氏に食ってかかりました。 私も、「では、ぽくは何になるのでしょうか」と尋ねてみました。 戸田氏は、じろりと私の顔を眺めましたが、いつまで経っても何も答えてくれません。私は救いを求めるように父母を見詰めました。しかし、父母は黙って微笑んでいるだけでした。「ぽくは門番にもなれないのか」−−私は、こう心の中で思い、落ち込みました。 それから三、四十年が経って、あの夜の戸田氏の「世界の父になる」云々の言葉は、単なる酔客の戯言(たわごと)だった、とわかりました。 と言いますのも、弟の弘は、平凡ながらも心の優しい、まじめな青年に育っていきました。大学を卒業後、創価学会国際センターの職員となり、そこで十年近く勤めましたが、嵩が学会を去るのと同時に、辞表を提出、宗教とは無関係の、ある図書関係の会に再就職しました。数年前、法華講妙緑寺支部の講員になり、現在に至っています。 嵩はといえば、あのことを自分の著書書に一度だけ、「戸先生と将棋をさし」と述べていました。「門番」については何も触れていませんが、忘れるわけはないと思います。負けん気の強い嵩のことですから、戸田氏の言葉をむしろ自らの向上に役立てたのだろうと私は推測しています。 私の場合は戸田氏の無言の意味するものを深く考えすぎて、それが心の傷となり、永い間苦しみました。ただし今の私は、門番もまた立派な職業だと考えておりますが___。 [衝撃Bポルノ雑誌『ルピー』] 戸田氏が雑司ヶ谷の我が家に訪れてきた翌年だったと思います。戸田氏は少年向け雑誌冒険少年』、次いで成人向け雑誌『ルビー』創刊し、私の両親もそれらの雑誌を売り捌さば)くよう、依頼されました。たしか、時は雑誌一冊が二、三十円くらいの値段で、一冊売るごとに一円ずつの謝礼が原島家に入る、という取り決めだったと思います。 なにじろ、終戦直後の貧しい時代で、ある裁判官が闇米を買うのを潔しとせず、配給米ばかりを食べて餓死した、という時代です。 私の家も、子供四人に加えて他人の子供が一人、戦地から引き上げてきた母方の叔父、そして母方の祖母と、合わせて一家九人を小学校教員の父の給料一つで養っていかねばならない時でしたから、一冊一円ずつの利益でも有り難く、両親は懸命にあちらこちらの本屋と交渉して、店内にその雑誌を置いてもらっていました。 ところが『冒険少年』も『ルビー』も、あまり売れませんでした。本屋からの返品が山のようになり、両親の儲けははとんどなく、むしろ返品の一部を買い取ったりして損の方が大きかったようです。 ある日、私は家の中に置いてあった『ルビー』を何気なく手に取り、ぱらりと開いて見て驚きました。グラビアの写真と本文の始めから終わりまでの挿絵(さしえ)のほとんど全てが、ヌード写真で占められていたのです。私は頭がくらくらし、「いやしくも、これが仏教徒が同信の人々を使ってする仕事か」と、怒りが込み上げてきました。 こうして、両親が及ばずながらも戸田氏を助けて働いていた頃の二十四年の春、これら二つの雑誌を発行する「日本小学館」に一人の若者が入社しました。二十一歳になったばかりの池田大作氏です。ちなみに、『新・人間欠命』には、戸田社長と雑誌編集者の打ち合わせをする池田氏の姿が描かれています。 帰宅した父が、「池田君はよく働く。今夜も励ましてきた」と私に語ったことがあります。しかし、あの雑誌『ルビー』の内容を知っていた私は、そう語る父に対しても不信の眼を向け始めていました。 その後一年もたたないうちに、池田氏編集の二雑誌は廃刊になりました。 [衝撃C『聖教新聞』のある記事] 昭和二十六年六月十日付『聖教新聞』の一面に、「不純分子に光る検査の目」「監査部活動対象すでに数名」などの見出しと共に、次のような記事が載っていました。 「指導監査部は、さきに学会組織編成に当り、会長直属の常用部処としてもうけられたが、ここに矢島周平氏を部長と決定、適任者を得た監査部はいよいよ活動を開始することになった。(中略)戸田会長はこの活動の重要さに留意され、馬場勝種、相原ヤス、和泉ミヨの三名を部員に加えて種々協議した」−−−私は、監査部員三名の中に、柏原ヤス、和泉ミヨの名前が挙げられているのに、心安からぬものを感じました。 と申しますのは、私の記憶では昭和二十四、五年頃、本部通達として私の父・原島宏治と小泉隆、辻武寿の三名が謗法者と断定され、学会の全ての役職を解任されて、本部はもちろんのこと、各支部、学会関係の建物、座談会などへの出入りを一切禁止されことがあったのです。私は、「父はさぞかし苦悩するだろう」と心配して様子を見ていましたが、父は、いっこうにショックを受けた気配を見せず、学会活動にあてていた時間を、読書とか家族団欒にあてて、ゆうゆうと毎日を過ごしていました。 この出入り禁止期間は半年ほどで終わったと思いますが、この事件についての母のうち明け話によれば、「戸田先生の側に仕える御婦人達から讒言(ざんげん)されたのよ」とのことでした。 右の『性狂新聞』の記事は次のようにも述べています。 「学会の手で産まれた信者でありながら折伏精神を会得せず折伏形態に外れ、便乗的に学会を利用して自分の立場を保とうする不純分子には断固たる処分がなされるは当然である。(中略)こうした問題になる人物は、会長の意思により最後決定をなし、除名が明らかとなれば、本紙紙上に不名誉なる名をつらねることになる」−−何やら、当時盛んに配られていた左翼のアジびらを思わせるような文体ではありませんか。しかも仏教徒としての慈悲の精神が、この記事からは全く感じられません。 私の不安は二年後に現実のものとなりました。昭和二十八年一月一日付の『聖教』紙上に、私の父が、十二月に文京支部長を解任され、地方統監部長という新しい役職を与えらた、ということが載っていたのです。さらに、同年六月には長らく勤めてきた教学部長の任を解かれ、小平芳平氏が新教学部長となります。私の母も、前年にわけのわからないまま支部婦人部長を解任され、謹慎を命じられていました。 嘆き悲しむ母に対して、父は常にこう言って慰めていました。「支部長・婦人部長の時は日本一の支部長・婦人部長になり、一会員の時は日本一の会員になればいいじゃないか」と。それを聞いていた私には、いったい、この父は偉大な人物なのか、鈍感な人なのか、わけがわからなくなりました。 その後、二、三年して、戸田氏は母を呼び寄せ、「側近の言葉を信じて、あなたを辛い目に合わせてしまった。申し訳なかった」と詫び、母に本部副婦人部長の地位を与えて名誉を回復させました。 近年、よく、「創価学会は、戸田先生が会長の時は良かったが、池田氏がすべてを狂わせてしまった」ということを耳にしますが、しかし、戸田氏と池田氏には多くの共通点があります。 ただ、戸田会長の時代はまだ会員数が少なかったため、宗門にある程度妥協していただけで、本当の牙(きば)を隠していたのではないか、と私は思います。 私のささやかな体験に、創価学会にもとから潜(ひそ)む鋭利な牙を、読者に少しでも感じていただければ幸いです。 (つづく)
今般、宗内雑誌『慧妙』に、極めて興味深い記事が掲載された。創賊の原島元教学部長の兄である昭氏が実地に見聞した戸田・池田にわたる二代の創賊史を語り始めたのである。ハッキリ云うが山崎正友氏の手記などは伝聞に基づくものが多く、史料としての価値は低かった。 しかし、今回の原島昭氏の発表はまさに「歴史」の実見者が語る史実であり極めて高い史料である。特に第二回目は戸田城聖の実相が語られており興味深いものである。 現在、宗内では戸田城聖の発言を切り文にして現在の創賊と対比させることによって創賊の矛盾を論ずる傾向があるが、史料を精査すると、現在の創賊の根本に戸田城聖が在ったのである。已下、 [その一] [原島家と池田大作の邂逅−若き日に垣間見た池田大作の本性] 理境坊信徒・原島昭 (元・東洋哲学研究所 研究員※註) 【註】東洋哲学研究所は創賊教学部のシンクタンクで原島嵩氏も在籍していた。 一、池田大作と原島家の因縁 東京大田区・多摩川下流の六郷川のほとりに矢口渡(やぐちのわたし)があり、私は、幼少の頃、両親と共にこの町に住んでおりました。 昭和十三年、私の二つ違いの弟・崇が生まれ、私が三歳、弟が一歳を過ぎた頃、母が、創価学会を通じて日蓮正宗に入信しました。その翌年には、父(編集室註:理事長・原島宏治氏)も母に説得されて入信しました。 入信してからの両親の布教活動は、子供の眼から見ても驚くべきもので、蒲田支部の基礎を作っていったのです。 さて、私の家の裏木戸をくぐると、そこは白木家の裏庭で、その家には私より三つほど年上の女の子がいて、名を「かね」とててました。その「かね」さんが、後に池田大作夫人となりました。 私の両親の折伏によって、この白木家の人々が皆、入信しました。昭和十五、六年のことです。同じ頃、父の紹介で、教員仲間の小泉隆氏、小泉氏の紹介で辻武寿氏らが次々と入信しました。 さらに辻さんが、蒲田の糀谷に住む三宅家を折伏しました。そして昭和二十二年になり、この三宅家の次女・淑子さんに連れられて初めて座談会会場に来たのが、まだ若かりし頃の池田大作でした。 このように、池田氏と我が原島家とは、浅からぬ因縁があったのです。しかし、池田氏との因縁が深い、と感ずる父の思い入れこそが、後々まで池田氏の実態を見破れなかった大きな原因であった、と私は思います。 ニ、池田の怨念を買った白木氏 創価学会は、昭和三十年に、公明政治連盟を結成して政界に進出しました。私の父は、二十余年勤務した小学校の教員を辞めて、大田区議会議員に立候補、めでたく当選しました。しかし、それから一年も経つか経たぬかのうちに、今度は参議院に立候補することになったのです。 父のほかには、相原ヤスさん、白木義一郎氏(※「かね」さんのいとこ)ら、学会首脳数人が同時に立候補していました。 その選挙の翌日、私は自宅でラジオの開票速報に耳を傾けていました。父や柏原ヤスさんの票が伸び悩み、落選が確実になった頃、大阪地方区から出馬していた白木義一郎氏の当確が報じられました。 白木氏の選挙参謀はあの池田氏で、私は、日頃から父母が池田氏を高く評価していたことと思い合わせ、「さすがだ」と思いました。 その翌日だったと記憶していますが、夜、池田氏が、大阪から凱旋(がいせん)して来ました。ちょうどその時、私は母と共に、お祝いを言うために池田宅を訪問していました。 池田氏は、笑みを浮かべながら訪問客の待ち受ける部屋に入って来ました。私もお祝いを述べると共に、日頃から私の両親が池田氏を「人材中の人材」と褒(ほ)めていることを告げました。池田氏はそれを満足そうな様子で聞いていましたが、突然、表情が一変して険しくなり、腹の虫が治まらないという感じで、次のようなことを言ったのです。 それは−−−大阪で、当選が決まって報道陣が白木氏のもとに集まり、いざ記念写真を撮る段になったところで、白木氏から「池田君、君はもういいから、奥の部屋へ行って待機していてくれ」と命じられ、自分は止むを得ずその場を退(しりぞ)かざるをえなかった、ということでした。(ちなみに、当時の新聞の写真に白木氏を中心に当選の万歳をしている人々の中に、池田氏は写っていないと思いますが、こういうわけがあったのです。) 池田氏にとって、自分がないがしろにされたことは大変な屈辱(くつじょく)だったようで、遠く大阪にいる白木氏に向けられているであろう、その両眼は、怒りに燃えているでした。 その池田氏の姿に、はいささか興醍(きりざ)めじた気分で、池田家を出ました。そして、折に触れては、池田氏の怨念を買ってしまった白木義一郎氏の将来に思いをいたすようになりました。 その白木氏は、選挙に出る数年前までプロ野球の花形スターでした。昭和二十五年九月には、次のような報道がなされています。 「九月二日、後楽園球場で東急フライヤーズの大下弘と白木儀一郎の両選手に、野球連盟ならびに球団から記念トロフィーと記念品が贈られた。大下が百本塁打、白木は七十四イニング三分の二無四球の世界記録を達成したため」(『昭和二万日の全記録』講談社)と。 白木氏は、それはそれほど世間的にも著名な人でしたから、選挙の勝因も自らの名声にあるのであって、池田氏の力によるものではない、との自負の念があったのではないでしょうか。 しかし、池田大作夫人の身内である白木氏が、政治家としてさしたる功績も残せないまま、いつの間にか表舞台から消え去っていったことを思う時、かつての夜の池田氏のすさまじい怒りが私の脳裏に浮かんでくるのです。 三、父・原島宏治の遺言 昭和三十九年の初夏のある朝、私が、勤行するために自宅の二階に上がって見ると、父がひとり何か考えごとをしていました。そして、私の顔を見ると、父はゆっくりとした口調で、 「池田会長から『近い将来、原島理事長は学会を離れ、創価大学の理事長として活躍されたらどうか』と言われた。おまえはどう思うか。』と言いました。 その時の父の様子から″突然、思い掛けないこと、理解しがたいことを言われた″という戸惑(とまど)いがうかがわれました。しかし私は、″ついに来るべき時が来た。池田会長は、理事長として学会の中枢にいる父の存在が邪魔になったのだと直感しました。ただ父の問いかけには答えようがないので黙っていました。 ちなみに、私の弟の原島嵩(元・創価学会教学部長)は、後年の著書『池田大作 創価学会の真実』で、池田氏には当初から天下盗りの構想があったとして、 「@まず、創価学会内にあって青年部を押さえる。A次に会長になり、創価学会の絶対的権力を手中におさめる。Bそして次の段階で宗門を支配下に置く。C…」と、天下盗り構想の図式Gまで述べています。 昭和三十九年のその時の時点では、Aの段階ははぼ完了しており、次の「B宗門を支配下に置く」ことを目指す段階に来ていました。 そして、Aの「創価学会の絶対的権力を手中におさめる」との段階を上がり切るには、最後の障害がありました。それは、創価学会理事長であり、さらに年内に公明党の結成が予定されているなか、その初代委員長に内定している原島宏治の存在です。 ちなみに、竜年光氏(元・公明党都議)の著書の中に、「原島理事長は池田会長に対して、池田先生、先生と繰り返し呼び、へつらっていた」と記述されていたようですが、それは全くの誤認識です。私自身、父が直接にも間接にも池田氏を 「先生」と呼んだことを聞いたことはありませんし、父の著述の中でも池田氏に「先生」の称号を用いたことは一例もありません。 父はいつも、池田氏のことを「池田会長」あるいは「池田さん」と呼んでおりました。逆に、会長になる前の池田氏は、時に私の父母に対して「お父さん」 「お母さん」と呼びかけて、母を喜ばせたりしていました。 同年十一月十七日、公明党が結成され、父が同党の初代委員長に選出されました。そして、それからいくばくもない十二月九日朝、父は心筋梗塞(しんきんこうそく)のために五十五歳で急死しました。 悲しみの醍(さ)めやらぬある日、弟の嵩が少し不思議そうな表情を浮かべながら、私に次のような話をしました。公明党結成直後のこと、父は、沖縄指導のため空港まで嵩を伴(ともな)って車中にいました。その車中で父は嵩に向って、「私は日蓮正宗の立派な一信者でありたい」と語ったというのです。 「兄さん、これはどういう意味だろうね」と、弟は怪訝(けげん)な面持ちで私に問いかけました。無理もありません。当時の弟は、池田会長を「生涯の師」として敬愛し、一生忠誠を捧(ささ)げようと決意していたのですから。 私はまたも本心を隠し、当たり障(さわ)りのないことを言って、その場を取り繕(つくろ)うしかありませんでした。弟が父のこの遺言を本当に理解したのは、池田氏と訣別して、日達正宗へ回帰してからです。 父の一周忌法要の終了後、池田氏と私のほかに大幹部数人がその場にいるだけの時であったと思います。池田氏は私に、 「原島理事長は、けっして私の事を先生と呼ばなかった」と話しかけてきました。そして、つぶやくように 「私は、原島さんに、かつて一度たりとも心を許すことはなかった」と付け加えたのです。 やはり、これが池田氏の父に対する本心だったのです。私は、原島一族の前途に、漠然(ばくぜん)とした、しかし言い知れぬ不安を抱きながら、池田氏と別れました。 (つづく)
最近、この手の本にはさほど興味を持たなくなっている。亡くなられた山崎正友氏もそうだったが、もはや『創賊ネタ』に関してはネタ切れ、というべきではなかろうか。 これは創賊も同じ事で正宗誹謗のネタが切れたようで、(笑)、二番煎じどころか三番煎じやら『古ネタ』の使い廻しに終始している状況であろう。 矢野絢也氏の著作にしてもあまり期待はしていなかった。もはや『創賊ネタ』で、我々が知り得なかった新規のネタはあるまいと思っていたのである。この『黒い手帳』にしても、書店で購入して放っておいたものである。今回、暇つぶしに読んでみたが、中味は意外に濃密な内容であったことに驚いた。 創賊というものの低劣な正体が、ふんだんと暴かれていて読み出したら止まらず、いっきに読んでしまったのである。 民主党の小沢が矢野絢也氏を国会招致するのであれば、来年の参院選にむけでであろうと思われる。これにまつわって、宗教界の強姦王である池田大作をさらに国会喚問するとチラつかせて混迷党は完膚無きまでに封じられるだろう。 [矢野裁判で裁判所が認定した創賊と公明党の体質] ○「創価学会青年部が怒っている」(高裁判決文一七頁) ○「青年部は跳ね上がっている。矢野の命も危ない」(高裁判決文一七頁) ○「土下座しろ」(高裁判決文一九頁) ○「人命にかかわるかもしれない」(高裁判決文一九頁) ○「あなたは息子がどうなってもよいのか」(高裁判決文一九頁) ○「それを渡さないと皆怒り狂って何が起こるか分からない」(高裁判決文二○頁) ○「渡さないなら覚悟はできていますね。」(高裁判決文二○頁) ○「重大なことと云えばわかるだろう。矢野さんの身に危険が迫る」(高裁判決文二七頁) ○「どうしてもだめなら、全党挙げて矢野さんをつけねらう」(高裁判決文三三頁) ○「要求を拒めば、これらの多数の創価学会員ないし公明党員が矢野及びその家族に対してどのような危害を加えるかもしれない。」(高裁判決文四一頁) 以上、これらのヤクザまるだしの言辞は『創賊』及び『公明賊』が、矢野絢也氏を脅迫した内容で東京高裁が認定した内容である。 矢野絢也氏の叙勲がとりざたされている。これも創賊の仏敵である民主党が打った一手とも思われるのである。創賊の研究者は是非ともご一読をおすすめしたい。
[創価チン報を持参した篠路(札幌)のバカ創賊] (笑)、 創賊の某より「会って話したいことがある」という電話があったので「おお、来いや」と云ったら、ほんとうに来たのである。(笑)、 創賊のチン報をかたてに「正宗は失敗したではないか」と云うので創賊のチンポウを見たら、空き席の多い大石寺の総会場だった。(苦笑)、 そこで、大白法の総会特集号の写真を見せるとみるみるうちにバカヅラが青さざめてきた。(笑)、 ![]()
やれやれ、信心してから四十年になんなんとし、それまで思いついていたことを書き連ねてきた。 私の恩師である「玉沢研斉御尊師」から、「将来の広宣流布は邪宗との言論戦になるから青年のうちからしっかり勉強しておきなさい。宗旨だけではなく広く仏教や他の宗教について見聞し、何処の宗派が正宗に向かってきても破折出来るように教学を学びなさい」と云われ、発心して教学に向かってきた。 ぼちぼちここらあたりで卒業としたい。もちろんこれからも御書の研鑽は続けていくし宗門教学について深めていくのはあたりまえである。が、何事にも「一段落」というものがあるが、邪教を破折する力をつけるという目的には到達したものと考えている。 札幌の《創賊教宣部》で私の名前を知らないものはモグリであると、いささか面はゆい評価をいただき、またネット等のメディアを仲介として数多くの邪教を論破してきた。 私は一介の在家であり、在家としての教義知識は十分に摂取したと考えている。我々は僧侶と違い生涯にわたり専門的な天台教学や仏教学を追究する立場にはない。どころか正しい正宗の教えを、いかに世間に応用展開してゆくかというほうが切実な問題である。 しかも読みたい本は山ほど残っており、地学関係の本やら、記紀(古事記・日本書紀)も再ど通読したいし、日本の通史や古代史も読んでいないものが残っており、北海道の植物関係や郷土史も読みたいものがあり、趣味のサバイバル研究も深めたい。 というわけで、今回の原稿をもって、私が宗祖の教義と正宗について考えてきたすべての「想い」はいったん終わりとしたい。 何人かの『妙法同志』から、「難しくてわからんわ」等の批判を頂いたが、これは教科書などではなく私の正宗教学に対する個人的な所感であり、あくまで自分の想いを打ち込んだものである。最後は、日恭上人について考えた。 恭尊の問題ついては私も史料等を集めていたが、春になり子育ても終わって妙な開放感にひたり、原野に放たれた孤老・・・もしくは荒野をさまよう初老の男・・・もしくは、《野原をうろつくホイトジジイ》の状態にあり、なかなか纏めるまでに至らなかった。(汗)、 日恭上人の御最後については当時の宗門の中では渋田師のように、この方は北海道の深川・宝龍寺の住職でもあったのだが、他にも宗門全体への仏罰≠ニ広言する方もおられたようだが、現象面から論ずれば敗戦による国体崩壊という状況からの反省≠フ言葉も出てこようが、日恭上人のお人柄をしのび、当時の宗門の出家気質をみれば、あながちこのような評価はあたらないと断ずる。 榎木境道師が編纂された「富士の法統」には日恭上人の御弟子方による追憶談が多く掲載されており非常に参考になる。日恭上人の遷化にまつわっては、 「翌日、日恭上人の御遺体が発見されましたが、日恭上人は部屋の中側から鍵を掛けられ、覚悟の最後を遂げられたと伺いました」(富士の法統・196頁)との、当時の状況が載せられている。 この時代背景は多くの方々が御存知のとおり、終戦間近に大石寺の書院が軍部に接収されて宿舎となった。書院には神棚がまつられ、内事部が抗議したが受け入れられるはずもなく、 ある日夜半に酒に酔った軍人が何かのトラブルを起こして出火(放火とも云われている)し、隣接していた大奥に火が回り翌日早朝に日恭上人は崩れ落ちた柱の中から、合掌して臥せられているすがたで発見された。 [火焔の恐怖] 以下は東京消防庁のHP、「消防雑学事典・デパート火災余話」からの、白木屋デパート火災からの引用である。
以上だが、多くの犠牲者は、飛び降りたり、帯や避雷針などで脱出しようとして失敗したことによる転落死だったことが事実のようであるが、女性が綱を巻いて下降するさい、着物のすそが乱れるのを気にして片手を綱から放して着物のすそを押さえ、体を支えきれずに転落死したという説もあるが、これには異論もあるようだが今の所談ではない。 海外を問わず多くの大火災のニュース報道で、火炎に追われて高層から飛び降りる場面が見られるが、火とはそれほど恐ろしいものなのである。ようするに火炎に追われたら高層からでも決死の飛び降りを敢行することがあるのだ。 [日恭上人は自決の道を選ばれた] 日恭上人は脱出する前に、やらなければならないことが二つあった。 一には寝間着から衣に着替えることであり、二には大奥安置の御本尊のお供をすることである。 一の着替えについては、日恭上人が発見されたとき出家の正装姿であったことから、寝間着から衣に着替えられていたことは確実である。 そもそもである、富士門流の総本山である大石寺の御法主が寝間着姿で三衣を放って逃げ出した、となれば世間の物笑いであり、歴代の権威を失墜することは確実で、ご人格が法に愚直であられた日恭上人には死に勝る恥辱であったろう。 『富士の法統』には、 「なにしろ小僧たちによくお菓子などを作ってくださった方だったから、甘いものがお好きだったのかな?(笑)。これは正継寺さんも言っていたけど、日霑上人(総本山第五十二世。日恭上人の御師範)に叱られる時に、大ぜいいた弟子が日霑上人が出てこられた時には皆逃げてしまって、日恭上人が一人で怒られていたってね。(編集部)はい、お聞きしています。堀上人が「お前の師匠はそういう人だったのだよ」とおっしゃっていたと伺っています。」(富士の法統・374頁) 弟子のお小僧様に優しく、師匠である日霑上人のお叱りには日亨上人でさえすっ飛んで逃げ出す始末のときでも、日恭上人は御師範のお叱りをしっかりと受け止めた師孝の方である。 しかし、学究の日亨上人や他の出家の方々が、日霑上人のお怒りの前ではスタコラと逃げ出す始末とは、ほのぼのとした逸話ではなかろうか。(笑)、 余談だが、札幌の直唱寺の関係者に『池田大作』の警備(特警)をした人物がいて、大作が創賊の大衆を相手に放言をブッているあいだに、尊敬する大作のイスに座って感激にひたっていたら、大作が帰ってきてワケノワカラナイことをワメキチラシながら、なんと、大作は手にした数珠で、その警備の青年を殴りつけたという武勇伝がある。(爆笑)、 ま、池田大作のような強姦野郎は別として、御法門に厳格な大石寺の法主上人がお弟子の教育のためにお怒りになられる次元はまったく別物であろう。(笑)、 このように仏法に対して極めて愚直な日恭上人であるから、火災にさいして大奥の内仏様を放って逃げ出すことは考えられないものである。 その御本尊が御板であったか紙幅の御本尊であったかは知り得ないが、御板であれば清楚な布にお巻きし、紙幅の御本尊であれば、お巻きして袱紗に包んで懐中に保護してお供をすることは、法に命を捧げた方であれば当然のことであろう。 現に、戦前の日本領であった樺太の正宗寺院である『開道寺』に住職として赴任していた『辰野開道師』は、御本尊に殉教して広布の花として散っているのである。 この逸話は愚輩の本編に保存してあるが、あらためて要旨を提出したい。以下。
以上、生まれ落ちて与えられた尊い生命を、大御本尊に殉ずるということは、正宗に於いてはあるのだ。 そして、このような正宗僧侶の心意気は特別のものではなく、帝都の正宗寺院の僧侶には見られたものである。日恭上人が炎の中に遷化した時代の正宗僧侶の心意気を示す事跡を、再々度『富士の法統』から引用したい。 「その大空襲の時、いざ「空襲」と言われ、本堂にすっとんで窓を開けた時には、すでに前の本行寺の側は火の海でした。御住職の日昇上人は白衣とモンペのお姿で「自分はお寺と運命をともにする!」との断固たる決意でいらっしゃいましたので、私も猊下の驥尾に付して、猊下とともにお寺をお守りする決意でいました」(富士の法統・242頁) この証言に気骨ある日本男子の心意気を見るのであり、日蓮正宗の僧侶は寺と殉ずる覚悟を持っていた。上記の樺太寺院の住職たる辰野師に見るが如く、日昇上人が常在寺とともに死ぬ覚悟を示したごとく、日恭上人は火炎の中で日蓮正宗の三衣を正装して御本尊に殉じられたと拝察される。 日恭上人は火炎の中で悠々と着替えを済ませ、脱出を断念して内側から鍵をかけ、それから内仏の御本尊に向かい、意識のある限りお題目を唱えつづけたものである。内側から鍵をかけられたのは断固たる決意によって外界を遮断されたものと拝される。 もし、日恭上人が三衣も御本尊(内仏様)も捨てて脱出して生き延びたならば、日蓮正宗の正統たる仏法の権威は失墜したであろう、これが事件の背後に存した正宗の僧侶気質たる実相である。 結果として、日恭上人は三衣を着たすがたで、内仏様に拝礼したかたちで遷化されていたのであり、いわゆる焼死という焼け焦げたようなものではなく、火炎の周回に伴う一酸化炭素の摂取による遷化であったものと推察される。 〈余話〉 正宗の、明治から大正・昭和にいたる時期に、大石寺の高僧に自らつきまとい、宗政に関与した形跡が見られる出家が宗門より破門され、怨念熾盛に燃えて、あらん限りの悪口誹謗を捏造して広言した出家がいたようである。 これを正宗誹謗のネタに採用したのが日蓮宗の学者であった『安永弁哲・立正大学教授』である。(笑)、 ヤスベン氏は云う、日恭上人は火災にさいし脱出しそこなって階下のカマドにはまり『残った内蔵のみで葬儀をあげた』と。 この情報に飛びついて正宗誹謗の根拠として採用したのが、『宗教法人創価学会の教学研究者』たちである。(笑)、 北海道における『創価学会札幌総合本部・教宣部』という篠路(しのろ)の創賊教学部員が自信たっぷりに上記を演説した。そこで私はこう聞いたのである。 「日恭上人であろうが一般人であろうが、体を焼かれて最後に残るのは『骨』ではないか、骨を焼け失って内蔵が残るとは科学の常識にそぐわないのではないかナ、」 と云ったところ、創価学会札幌本部・篠路の教宣部員は体を震わして口をパクパクさせるのみであった。(笑)、 もし、日恭上人が、火炎によって骨が焼き失せて、内臓だけが残ったとしたら『Xフアィル』に取り上げられることは確実である。宗教法人・創価学会というシステムは『Xファイル』の信奉団体なのであろうか?(苦笑)、 正宗から破門された退転坊主の浮言を利用し立正大学の教授・・・というか『狂授』のホラは『破綻』の宿命を持っていたにもか関わらず、このような非論理を利用した創賊共のホラも一蹴しておく。(苦笑)、 本化題目考 |