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 遥かなる尾根へ


最近、ネットにおける良質なサイトとして国土地理院の「ウオッ地図」にはまっている。

クリックすることによって「二万五千分の一」と「五万分の一」の全国地形図が検索でき印刷出来ることの有り難さは「山屋」にとって、あるいはトレッカーにとってたいへん重要な情報である。

北海道の日本海側、つまり札幌から旭川にかけての途中にある「樺戸山塊(山地)」の最高峰であるピンネシリ山への登山道が、札幌の隣町である「当別町」からあることを知った。

しかもピンネシリ山と縦走路のある隈根尻山の登山口は同じで、したがって単独行でも縦走出来るコースであるのがうれしい。

このピンネシリ山は、過去に斉藤由貴さんが主演となって描かれたNHKのドラマ「新十津川物語」で知られるようになった、奈良の十津川郷士が移住して開拓された町で、ピンネシリ山は町のシンボル的存在であり、私の「故郷の山」でもある。

こどもの時から友人たちと数十回と登った山であり、札幌に住んでいる今もアウトドアや山菜採りなどで札幌方面からながめてなつかしくホッとする景色の山でもある。


近年石狩市の青山地区に『道民の森』という、オートキャンプを主としたエリアが設置され、二ヶ月前から予約しなければならない方式が、はたして道民の憩いの場として適切なのかは別問題として、これにしたがって登山道が開削されたことは有意義なことは間違いない。

北海道の山情報ではまったくこの情報はなく、1993年に発刊された北海道の登山ガイドにはピンネシリ山の隣りにある、現在『道民の森カムイ尻エリア』にあるカムイ尻山に登山道が敷設され、ピンネシリまでの縦走路が開かれたことは知っていた。

しかし、古い山仲間からも、ピンネシリが新十津川登山道と正反対の当別から登れるとは聞いたことがなかったのである。


いまから15年ほどにもなるか。ボクは両膝に爆弾をかかえてしまい(膝関節炎の慢性化)、山を隠退した。一時は膝に鉛をつめこまれたように重く痛みつづけ、歩くこともままならないほど悪化していた。

病院にいっても湿布でおさえるしかなく、たまった水を注射器で抜き取るのがせきのやまであったボクは、山を引いたとたんにアウトドアに対する関心が無くなり、カヌーも漕がなくなり、釣りもやめ、スキーが出来ないアウトドアなどもう過去の思い出として捨て去ったのである。

カヌーの仲間や登山関係者、沢登り(渓流釣り)の友人や磯釣りの仲間たちが、誘われてもお断りをするボクをどう見ていたのかは知らない。ただ、10年以上も、酒飲み以外はつき合わないボクを野外にさそってくれた仲間たちには感謝とともに慙愧に耐えないおもいが残っている。



趣味の野外活動を失うかわりに、ネットに邁進して創賊を叩き、実生活でも創賊まわりをはじめてあちこちで法論につぐ法論、ただの一度も創賊に遅れをとったことはなく、更に宗史・宗旨の研鑽と研究にあけくれるようになった、あれから十五年。

途中の道道で出会ったキタキツネ。とっさにデジカメを構えたので相当ブレている。あ〜ぁもう少し高いカメラが欲しい〜と、いうところ。(笑)、


今年、ようやく子育てが終わった。ふたりの娘を育て、上が結婚して次女は晴れて国家公務員として社会人となり、ボクも老後の心配が無くなった。(笑)、・・・が、ハッキリ云うが「後は野となれ山となれ」の心境である。こんな開放感はしばらくぶりであり、原野に解き放たれた老狐のこころが理解出来る。(爆笑)、


最近は膝の調子がよく、昨年からクロスカントリースキーを再開した。このスポーツは膝にかかる負担の少ない運動で、バックカントリー(山岳)は無理だが、冬になったら設置される大規模公園のクロカンコースであれば楽々と滑走することができ、爽快なスピード感を楽しめる。ま、子供や初老の爺(ボクのこと)に最適なアソビなのである。

夏はMTBでツーリングを楽しむようになって、膝の周囲に除々に筋肉がついてきたようでだんだん膝に無理がきくようになってきた。関節炎の原因は、当時勤めていた会社が導入したパソコンの、技術取得にともなう運動離れが原因でもあったかもしれない。


本題にもどる。

ボクが子供のころから登って遊んでいたピンネシリ山は、ボクにとって故郷の山であり、今は「遠くから見る山」となっていた。

国土地理院の地形図によってボクは「好奇心の塊」となって燃え上がっていた。これが先週のハナシである。

・・・「そんなわけが無い、ピンネシリは新十津川という空知支庁の山岳であり、当別町は石狩支庁であり、その距離は100キロメートルも離れているのである」・・・が、これは地図上の市町村の距離的感覚であり、行政区分じょうでは別な問題だと知った。

あらためて樺戸山塊周囲の「二十万分の一地勢図」を見ると、ナント、私の故郷の山であるピンネシリ山の半分は、札幌の隣町の石狩市の行政区分であった。私の地理的感覚が誤っていたのである。




ここで、「地図」と「地形図」と「地勢図」の違いを云えば、地図とは道路や建物や自然界の河川や湖沼の位地を示すものであり、地形図とは「五万分の一」か「二万五千部の一」という縮尺で自然界のカタチを表したもので等高線を見ることで山岳などの地形や高度が想定できるもの。地勢図とは二十万部の一の地図で上記の地図と地形図のもととなる基本的な表現図である。


山屋(登山家)が「地図」といったら「地形図」のことである。この知識は、今回のボクがやった失敗談の基本的知識である。(笑)、

私が膝を痛めて山を隠退した時期はまだ五万分の一の地形図が全盛期で二万五千図は重要部分でしか使用されなかった。二分の一とはいえ、X軸Y軸が半分であるということは四倍の大きさになるので、したがって五万分の地形図を二万五千にすれば、四枚の二万五千の地形図が必要になる。

つまり、地形図の値段は一枚が四百円程度だが、五万分の一の地形図を二万五千の地形図にすると四枚の図面が必要となり、一千六百円の投資になるのである。(笑)、

だが、四倍の情報量を考えれば現在では二万五千の一地形図が主流となっている。ネットで公開されている現在、簡単にコピー出来るのでこれからは広く地形図の普及がなされていくと思われる。

登山標識はしっかりしており、まるで内地の山岳のようである。(笑)、

北海道の登山道でこれだけしっかりと標識が設置されているのは珍しいのではないか。


北海道の初夏の風物詩、野いちご。このなんでもない風景が心に染み込んでホッとさせられる。


登山道にあったヒグマのフン。早朝と夕暮れの薄暮の時間帯は野生の世界である。


尾根を走る縦走路が稜線上にくっきりと印されているのがわかる。

ピンネシリ山から月形町方向へつづき隈根尻山までの、4.5キロメートルはアップダウンの連続である。

とくに、ピンネシリ山の隣りの「待根山」からの下りは約200メートルを一気に下り、膝が笑う状態となる。


縦走路にあったヤマユリの花。殺伐となりがちな荒々しい自然界にあってこころがひといきつく瞬間である。


縦走の最終地点から歩いてきた山を振り返る。

左がピンネシリで、右が待根山。


縦走路の終点の隈根尻山からの降路。

丸太で階段がえんえんと続き、さすがに膝関節にはこたえた。

途中で何度も休憩をとり、ようやく林道に降り立ったときは足がひきつりかかっていた。(笑)、

これでは路の維持管理がたいへんだろうな。


このような休憩所が数カ所設置してあり、ずいぶん丁寧なつくりの登山道であるかと感心した。

さすがに道庁のやる官の仕事である。(笑)、



今回の山行は登りが約5キロ、隈根尻山への縦走が4.5キロ、隈根尻からの下山が約5キロで全走行距離は約15キロで6時間30分の工程だった。

が、両膝の関節は良好とはいいがたく、後半は膝をかばいながらの降下でしんどい山行だった。ま、なんとか全行程を安全に完遂できたことはとてもうれしかった。

今回はキツイ山行であった。自分が慣れていた五万分の地形図と二万五千の地形図では等高線の間隔の距離数が違い、二万五千の等高線を、体感的に身についていた五万分の地形図と錯覚して山の地形を想定してしまっていたので傾斜のキツサが理解出来ていなかったのである。

今回は「歩き」に主眼をおいたので登山靴はやめて地下足袋をはいていったので軽々と歩けたが、後半は足があがらずスリアシ状態で休みながら歩ききったが、はっきり云って実力以上の歩きをやってしまったというのが実感である。

年齢と実力を自覚して安全なトレッキングをこころがけるべきであると反省をした山旅であった。




 随想・本化題目考 [滅後 04]                  2009年6月17日 20:24:30




[三位阿闍梨日順師の相承観]


三位日順師、『用心抄』に云く。

「問ふて云はく仏日西に入りて法水東に流れ・賢聖隠ると雖も慧命未だ絶へず、正像の弘通は金口の明説・末法の教訓は写瓶の相伝なり、(ー中略ー)抑久遠の如来は・首題を上行菩薩に付囑し、日蓮聖人の法門は・日興上人に紹継し・紹継の法躰は日澄和尚類聚す、類聚興顕して師に先立つて没す、上人常に誓願して曰はく、先聖に逢値する五老すら猶謬誤有り・早世以来の弟子定めて非義を懐かん、自今已後・聖人著述の書釈に任せ・久く法光を曜し・澄師所撰の要文を守りて宜しく宗旨を興すべし、」
(要集二巻・一三頁)


※日順師の相承観は富士門徒の特質を述べた部分もあるが、唯授一人の法体相承にまでは及んでいないようだ。『用心抄』の「末法の教訓は写瓶の相伝なり」は一応の仏教における大義に従った「問い」の立場で述べられているが、これこそ仏教思想の普遍的な相承観と云うべきである。

禅宗における「教外別伝」、日本天台の本覚思想における「唯授一人相承」等の特別に感じる秘的な相承は特異なものではなかったのである。浄土系の真宗に於ても実子相伝は血脈そのものである。


おなじく『用心抄』に云く。

「近日諸方を見聞するに・或は弟子の名言を以て器に非ざるに聖教を授け、或は有縁の親類を哀んで不信に本尊を渡す、只仏法破壊のみに非ず・師迹の滅亡を招くものか、此の門跡に於ては・縦令ひ親子弟子の芳契有りと雖ども、行学を謝遣せば敢て之れを伝ふること勿れ、若し年来有志の憐愍を哀納せば世物を譲与せよ更に制の限に非ず、一門の僧徒是れ闕如に及ばば正信の俗衆且く之れを安置して、後来の抜群を捜り・択んで相承せしむべし、然らずんば又富山末学の中・道心求法の人・行学の二徳を具し慇懃の誓文を捧げ、澄師の余流と号し伝灯の所望を致さば是れ■惜に能へず、速に授与せしむべし、妄りに巧言の説に耽けり楚忽に渡すべからず。」
(要集二巻・一七頁)


※順師のころ、富士一跡門徒存知事等に述べられている他門の退廃ぶりが述べられている。たんに弟子であるというだけで宗祖の聖教を相伝せしめ、親族の情に負けて本尊を下附するなどの紊乱が顕著であったようだ。

日興門流においてはたとえ親子であっても師弟であっても行学に堕退なものには聖教・本尊等を相伝してはならず、もし出家が絶えたならば在家が一時的に法宝を預かり、門流の僧侶で法城を受け継ぐ厳格な信行の方が現れれば預かった法宝を相伝すべしとあるが、宗門の停滞期において信徒が少なくて寺院を維持することが困難な状態の寺院がけっこうあったが、信徒がよく寺宝を守り法城を守護してきたと伝承される寺院がいくらかあった。いわゆる「無住寺院」である。

が、ここで留意すべきは「日澄門流」こそ興尊の正嫡であるとの意識がかいま見えることである。日仙師と日代師とのいわゆる「仙代問答」のさい、最後の決判は日道上人が下されたのだが、日代師が「施迹」の分には迹門を捨てるべからずと論じたのに対し、仙師の破折のつぶてが乱打されたと思われるが、日道上人は「施・開・廃」ともに迹門は捨てられるべし、と答えてこの問題に終止符を打ったのであるが、日順師はどちらかと云うと日代師の思想に近いものがあったのかもしれない。


以前に述べたが日興上人には迹門に対する「借文」という思考は明確には見あたらず順師は興尊のご指南として「所破」とのみ記している。日道上人もこのことをよく知っていて日代師の「施迹」に用いるという論法を破折されたわけだが、日代師の本意とは思われない。およそ宗内議論に問答口をもって議論をすることじたいがおかしいのだ。

松本和道居士が述べられているが、正月ということもあり少しお酒が入っていて、また地方からも登山している弟子がいたために一興として盛り上がったのではなかろうか。


日道上人の『遺日尊状』に、「日興上人御跡の人々は面々に法門を立て候、或いは天目に同じて方便品の不読を論じ、あるいは鎌倉方に同調して迹門に得道ありと立てている。ただ日道ひとり正義を立てる間、強敵充満候(歴法全一巻・二八七頁)」と論じられているが、日順師も『用心抄』に、「大聖・富山二代の門家、面面の異義今に絶へず、定めて知んぬ一は是、余は非なることを」と述べられている。

日順師には『用心抄』に、「過八恒沙の菩薩・若聴我等の請を出して此の土の弘経を申すに付いて、止善男子と制禁し玉ふ、天台大師は前三後三の六義の釈を成す、是を以て知ることを得・其の弟子に非ざれば此の法を伝ふること無きことを。」とも述べられているから附法の大事はよく御存知のものだった。

では、興尊のお側近くにいて宗祖よりの唯授一人血脈相承の意義を知らなかったのであろうかと問われれば、既に述べたように日興上人が宗祖より二箇相承をいただき正嫡の相伝であることは順師も間接的に述べられたのであるが、なにせ三位日順師は日興上人の直の弟子ではない。

順師はあくまで「日澄師」の弟子であり、故に日興上人の「本六・新六」に入ることが出来なかったのである。しかし日澄師の血脈法系譜に連なる秀才が重須談所の大学頭を勤めるという伝統は確立されつつあったと考えてもよいのではないだろうか。順師が「澄師の余流と号し伝灯の所望を致さば是れ■惜に能へず、速に授与せしむべし」と述べられたのはこういった事情を踏まえてのことであろう。ただし、順師は「本六・新六」の制定を高く評価されている。【註】


【註】『日順阿闍梨血脈』
「伏して富山の立義を検へたるに・堅く爾前迹門を破して高く無上の実本を顕はし、偏に諸師の謬誤を糺だして専ら大聖の古質を写す、譬へば鏡像円融の如し、誠に是れ聖を学ぶ賢師なり、本地は幽微にして凡慮測り難し、但だ雨の猛きを見ては竜の大なるを知り、花の盛なるを見ては池の深きを知るのみ、已に久遠の大人に値ひて本門の深法を伝受す、敢て始行の菩薩に非ず殆ど無辺行の応現か。此の師亦た法主の佳例に准望して六人の名言を授与す、頗る上聖値遇の古老なり、仍て過半先立つて逝去す、往古治定する所なるが故に本六人と云ふ、次に一乗の大機を撰量して、重ねて六人の碩徳を添加す・是れ最後随逐の若徒なり、蓋し末世の竜衆と謂ふべし、近来賞翫に預れば乃ち新六人と名く」



日順師の『日順阿闍梨血脈』には、「次に日興上人は・是れ日蓮聖人の付処・本門所伝の導師なり、稟承五人に超へ・紹継章安に並ぶ、所以は何ん・五老は同く天台の余流と号し富山は直に地涌の眷属と称す、章安は能く大師の遺説を記し・興師は広く聖人の本懐を宣ぶ、昔智者の法を学するの人・一千余にして・達すること章安に在り」と述べ、天台智の仏法は章安一人が相承し、大聖人の仏法は日興上人お一人が正しく相承されたと論じられている。

順師が『摧邪立正抄』に、「日興上人に授くる遺札には白蓮阿闍梨と云云、」と、遺札とあるから二箇相承と論じて間違いはないであろうが、『本門心底抄』にも「当時利益の本尊経題甚深の事、大畧斯の如しも願くば門徒の宝器を撰して密に面授相伝すべし若し外人他見に及はば還って誹謗の邪難を加へん」と論じておられ、大石寺門流の特質的相承観が述べられている。


即ち、大石寺門流の唯授一人血脈相承は既に日興上人門下の高弟にはよく知られているものであったのだ。




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